「日本のパラスポーツの父」中村裕とは?大分県と障害者スポーツ

「日本のパラスポーツの父」中村裕とは?大分県と障害者スポーツ左側:1964年東京パラリンピックで選手宣誓をする青野繁夫選手と中村裕団長(写真提供:太陽の家)
右側:左より中村太郎氏(大分中村病院理事長・中村裕博士御子息)、山下達夫氏(太陽の家理事長)

昨夏開催された「東京2020パラリンピック競技大会」。大会の歴史を紐解いていくと、障害者スポーツの発展に尽力し「日本パラリンピックの父」と呼ばれた人物にたどり着くことができる。それが、1964年東京パラリンピックにて日本選手団団長を務めた中村裕(ゆたか)博士だ。障害のある人の社会参加やスポーツの支援に情熱を注いだ中村博士。今回は、彼の原点となる大分県の太陽ミュージアムを取材した。

「日本のパラスポーツの父」中村博士とは

中村裕博士は、大分県別府市生まれ。九州大学医学部を卒業後、同大学整形外科の医師となる。1960年、当時国立別府病院整形外科科長を務めていた中村博士は、リハビリの研究のため、英国のストーク・マンデビル病院に留学した。ストーク・マンデビル病院は、第二次世界大戦で負傷者が出ることを見越して脊髄損傷センターが開設され、脊髄損傷患者への包括的な治療を行い成果を上げていた。中でも、医療とリハビリにスポーツを取り入れており、そのことに衝撃を受けたという。

帰国した中村博士は、早速日本でもスポーツをリハビリに取り入れようとした。日本ではまだ「リハビリテーション」という言葉さえも一般的ではなかった時代。「治療は安静が中心」と言われていた当時では、到底考えられないことだった。それでも粘り強く行政や医療関係者への説得を行い、1961年大分県身体障害者体育協会を設立。全国初となる障害者のスポーツ大会、「第一回大分県身体障害者体育大会」を実現した。

「パラリンピックの父」中村博士とは:イメージ1

「パラリンピックの父」中村博士とは:イメージ2

批判もありながら実現しようとした障害者スポーツ

1961年に開かれた「第一回大分県身体障害者体育大会」は、中村博士の思い描いていた成果は得られなかった。そこで、人々の関心をさらに高めるために、国際大会への参加を決意する。世界で唯一の障害者スポーツ大会として知られていた「国際身体障害者スポーツ大会(国際ストーク・マンデビル競技大会)」に、大分県の車いす選手2名を選び、日本選手としての国際大会初参加を実現させたのだ。これは、日本のみならずアジア初のことであり、世界的に大きく報道されたことで、日本国内でも障害者スポーツが注目されるきっかけともなった。

批判もありながら実現しようとした障害者スポーツ:イメージ1

批判もありながら実現しようとした障害者スポーツ:イメージ2

パラリンピック・フェスピックの実現

中村博士は、1964年東京オリンピック後の国際大会を実施すべく東奔西走し、大会開催への気運を高めた。これまでの努力が実を結び、ついに国際身体障害者スポーツ大会が東京で開催された。この大会は脊髄損傷で車いすを使用している選手を対象とした第13回国際ストーク・マンデビル競技大会と、すべての身体障害者を対象とした国内大会の2部構成で開催された。第13回大会はオリンピック開催年にオリンピック開催都市で開かれたことから、対麻痺の“パラプレジア”と“オリンピック”の合成語であるパラリンピックの愛称で呼ばれるとともに、1989年に国際パラリンピック委員会創設後、「第2回パラリンピック」と位置付けられた。5日間の大会は、21カ国、567名(選手378名、役員189名)が参加し、中村博士は日本選手団の団長として53名の選手とともに参加した。さらに、翌日から2日間にわたり開催された国内大会には、592名(選手481名、役員111名)が出場するという盛大なものとなった。

中村博士は、その後も5大会続けて日本選手団団長を務めながら、アジア、南太平洋の障害のある人の福祉の向上を目指し、視覚・脊髄損傷・頚髄損傷・切断・脳性麻痺など様々な身体に障害のある人を対象としたフェスピック大会(現アジアパラ競技大会)の開催に奔走した。

1965年には故郷の別府市に障害のある人の仕事や生活の自立をサポートする施設である「太陽の家」を開設した。創立以来、太陽の家では障害のある人の働く場づくりに取り組み、多くの障害のある人が社会復帰している。

パラリンピック・フェスピックの実現:イメージ

2020年オープンした体験型の資料館、太陽ミュージアムとは

社会福祉法人太陽の家は、2020年7月にこれからの共生社会へ情報発信を続けていくための拠点として「太陽ミュージアム~No Charity, but a Chance!~(保護より機会を)」をオープンした。

ミュージアムは、「学ぶ」「体験する」「感動する」をコンセプトに、中村博士の功績の数々や太陽の家設立の歴史、太陽の家との共同出資会社、パラスポーツの歴史やルールを学び、用具を体験できる展示室や、車いすに乗ってスロープや段差を体験できる体験ゾーン等がある。

パラスポーツの展示エリアには、競技用車いすや義足などの用具が展示され、車いすバスケットボールやボッチャなどを体験できるコーナーもある。館長の四ツ谷奈津子さんは、「実際に体験してもらうことで、見て学ぶよりも強く印象に残り、障害者が日々感じている悩みやニーズを理解してもらいやすいと思います。この場所が、共生社会の実現に向けたきっかけとなってほしいです」と話す。

さらに、ただ昔のものを展示するだけでは伝わらないと考えた四ツ谷さん。「学ぶ」「体験する」「感動する」のコンセプトづくりに最も時間をかけ、ほかにはない体験型のミュージアムを目指したという。
「おかげさまでとても好評です。例えば、多くの子どもたちは学校の社会見学で当館を訪れます。ペンやノートなどを持って来るんですが、そういったものを全部置いてもらって、まずは体験してみてくださいと言います。車いすはもちろん、介助の道具や企業の紹介や働く工夫を体験してもらうことで、とても楽しいと言ってもらっています」(四ツ谷さん)

「この町の障がいのある人は、積極的に外に出て普通に生活を楽しんでいるし、市民がそれを自然に受け入れている。そういった共生社会がほかの町にも広がればいいと思います。」と四ツ谷さん。パラスポーツ発祥の地から、スポーツを通じた共生社会の輪が全国に広がっていくことを願っている。

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2020年オープンした体験型の資料館、太陽ミュージアムとは:イメージ32021年11月20日(土)にはスポーツ庁室伏長官も同ミュージアムを訪問された

2020年オープンした体験型の資料館、太陽ミュージアムとは:イメージ4左側:左よりスポーツ庁室伏長官、太陽の家理事長の山下達夫さん
右側:「太陽ミュージアム」館長の四ツ谷奈津子さん

1981年国連国際障害者年の記念行事として、世界で初めて車いす単独のマラソン大会を開催

中村博士は、地元の大分県に提唱し第1回大分国際車いすマラソン大会を開始した。以降、毎年開催されており、世界のトップ選手が集まる世界最大規模かつ最高レベルの大会として、国内外から高い評価を受けている。市民が車いすアスリートと接する機会は多く、車いすマラソン開催時期だけでなく、「心のバリアフリー」の意識が根付いているため、ホテルや飲食店、コンビニエンスストア等では、車いすの人が自然と受け入れられている様子が見られる。街全体で車いすマラソンを支えてきたことが、さらに県内全域に広がり、車いすマラソンの歴史が大分県とともに刻まれてきたことを目の辺りにした。今年で41回目を迎えた大分国際車いすマラソン。中村博士をはじめ、多くの先駆者の思いと精神は、日本のパラスポーツに今も引き継がれている。

1981年国連国際障害者年の記念行事として、世界で初めて車いす単独のマラソン大会を開催:イメージ1第41回大分国際車いすマラソンスタート地点

1981年国連国際障害者年の記念行事として、世界で初めて車いす単独のマラソン大会を開催:イメージ2スポーツ庁長官賞の授与(男子T34/53/54優勝マルセル・フグ選手)

●本記事は以下の資料を参照しています

社会福祉法人 太陽の家 - 故 中村博士について(2022-11-01閲覧)
笹川スポーツ財団 - ルードウィヒ・グットマン 中村裕 歴史をつくった二つの足跡(2022-11-01閲覧)
昭和ガイド - 中村裕(2022-11-01閲覧)
日本パラリンピック委員会 - パラリンピックとは(2022-11-01閲覧)
パラスポーツの歴史と現状(公益財団法人日本パラスポーツ協会)(2022-11-01閲覧)

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